音楽教育で知られるこの大学は、『フィガロの結婚』公演を、何ともうこれで8年連続で、やってきているのだという。私は今回はじめて行ったのだが、とても素晴らしい公演だった。 63年10月、中学生だった私は、それまで知らなかったものに出会い、息をのんだ。それは日比谷の日生劇場の杮落としでおこなわれたベルリン・ドイツオペラの引越し公演の『フィガロの結婚』の第一幕の冒頭の響きだ。その音楽の、何ともいえない心弾む響きと上質な音色を、中学生の私は無論NHKのライブ録音中継で観聴きしたのだが、一生忘れない。それはこの作曲家の一代の名指揮者カール・ベームのタクトのなせる業ではあるのだが、モーツァルトという作曲家の最高の贈り物が、まぎれもなくそこにあった。それは、生きる歓びへの賛歌だ。 ボーマルシェの戯曲『馬鹿騒ぎの一日』がパリで初演されたのがあの市民によるバスティーユ襲撃で火蓋が切って落とされる大革命の前夜の4年前の1785年。そのことも象徴するようにこの芝居は、「ただ生まれだけで威張り不当な圧迫をする貴族を庶民の知恵で打ち負かす」という既成権力への反感を露骨な主題としたものだった。大学に入学した春、私は大学傍の古本屋でフランス語原書のその原作戯曲をみつけ、嬉々としてすぐ買ったことを憶えている。そんなもの、読めはしなかったのだが。 だが、そういう庶民の怒りを代弁した気の利いた風刺喜劇以上のものではないその原作から、モーツァルトは、30数年のかれの生涯でも一代の傑作といってよい音楽を創造してしまった。ここにあるのは、ボーマルシェのその原作を下敷きにはしながらも、もはや風刺とか軽い喜劇というものではない。いや、それはそうではあるのだが、材料がそういう誰の日々にでもある軽い行為や感情や親しい者どうしの悪ふざけのやりとりであるからこそ、じつはそういうなかからしか生まれない、普遍的な人間の喜怒哀楽の感情の賛歌を、作ってしまったのである。 この音楽に接して心動かされない者がいるだろうか。 結婚を控えた愉悦と横暴な要求をするアルマヴィーヴァ伯爵への対抗を考えるフィガロとスザンナの召使カップルの第一幕、奥方の小姓のケルビーノの行動が巻き起こす騒動の第二幕、フィガロの機転で伯爵の好色な行為を防ぎ逆に祝宴を伯爵に挙げさせる第三幕、その伯爵懲らしめとすべてを赦すフィナーレの第四幕と、その背後の音楽の鮮やかさよ! 原作の筋書きも、たしかにボーマルシェの才能と回転速い機知を感じさせる無駄のないものだ。だがそこにつけられたモーツァルトの音楽はそれを遥かに上回る息を呑むものだ。ここで旋律と歌は、新緑の渓流のように勢いよく流れ、清冽な飛沫を上げ、そのなかにピチピチして跳ね回るものを生動させる。 モーツァルトは、そういう宝石の音楽を作ってしまったのだ。人が人である限り、生きることの歓びをそこに感じることが尽きない歌劇をだ。 私は、ソプラノの大隅智佳子のブログでこの公演を突然知り、チケットをカミさんぶんと2枚申し込んだ。だが大学オケと知り、じつは内心その大隅のスザンナ、昨秋の『ノルマ』でのアダルジーザの田崎尚美の伯爵夫人の2人を聴くだけが目的で、あとの全体は白状すると大して期待していなかった。 その不明を恥じ、関係者全員に、ここで心からお詫びしなければならない。 会場が暗くなり、指揮者がオケのピットに入りあの軽快で俊敏な序曲が始まったとたん、お、これは思いのほか上質なものかもしれないぞ!と、一気に期待値が高くなった。そして結果は、その私の予感が当たった。 何でも川越市にあるこの大学はモーツァルト研究家として世界的に知られる海老沢敏を教授に迎え、音楽表現学科と情報表現学科でモーツァルトのこの名作を題材にそれを精細に講義する講座を持っているとのことだ。その基礎の積み重ねを元に、その応用編としてこの歌劇作品を、管弦楽の講座を受講している学生と陰生を中心に組織した学内オーケストラで、過去8年間、公演で演奏しているのだという。 そのオケの実力は前記のとおりだが、昨日私が接して感心した舞台装置と美術も、もちろんプロの指導はあるのだろうが、上記の2つの専門学科の学生たちが担当するのだという。 むろん、これほどの成功には、下記のプロの歌手たちの実力が欠かせないわけだが。 ・オケ指揮 河合高市 ・スザンナ大隅智佳子 ・伯爵夫人 田崎尚美 ・アルマヴィーヴァ伯爵 佐野正一 ・フィガロ 久保和範 しかし、やはり大隅の声だけは、いつものように、周囲とは画然とレベルの違うものだった。 珠玉の名作アリア揃いのこの歌劇のなか、強いて一曲だけおまえのもっとも好きなものを挙げろ!といわれれば、私は第三幕、スザンナと伯爵夫人ふたりのソプラノの二重唱のあの「手紙の二重唱」を、挙げる。昨日の公演で大隅智佳子と田崎尚美のふたりの気も遠くなるように美しい声でのこのデュエットは、何と素敵だったことだろう。 伯爵夫人の田崎が風邪でも引いてしまっていたのか、声がアリアのなかで時に途切れていたのだけが、気の毒で残念だった。 カミさんとふたり、大いに心を満足させられて、雨のなかを帰途についた。